2010年7月12日
7/26(月)10:30頃FMおたる「おたる案内人インサイドストーリー」
7/26(月)10:30頃FMおたる(76.3MHz)「おたる案内人インサイドストーリー」放送
== おすすめ観光スポットや体験談・おたる案内人としての夢をお伝えします ==
■再放送 同週金曜日21:15頃
今回の出演は、おたる案内人マイスター
堂端 史人さん(こだま交通株式会社)です。
私は昭和47年に羽幌で生まれ、9歳になる時に小樽に来ました。それ以前にも塩谷の祖父宅には来ていたことがあり、ニュー三幸さんで小樽の夜景を見ながら食事をしたのが記憶に残っています。その時はまたあそこで食事をしたいと思っていましたが、本当に小樽に住むことになるとは思いませんでした。初めて小樽に来たとき、父は小樽運河へと連れて行ってくれました。「もうすぐここの風景は一気に変わる。だから今のうちに見ておけ。」と言われたのを今でも覚えています。小樽運河では、兄や弟とはしけの上で遊んでいたことも覚えていますし、石蔵倉庫を利用したライブハウスで劇をしたこともありました。小樽に来て最初の一年は長橋に住んでいて、近くのなえぼ公園が私たちの庭のようなものでした。川で小魚を取ったり、桜のトンネルを越えて桜陽高校に行く途中に大きな毒キノコを見つけたりもしたものです。塩谷に移ってからは山スキーにはまり、夏は入っていけないようなささやぶの奥地の眺めを堪能したりしたほか、夏は塩谷漁港の裏の断崖を降りて磯遊びをしたり、塩谷海岸の浜掃除をした後豚汁に舌鼓を打ったものでした。
そして中学2年になった昭和61年、小樽運河周辺の道路が完成し、車も人も一気に増えて驚いたのを覚えています。小樽運河は本当に大化けし、急増する観光客の方を迎えるホテルや観光施設も充実してきました。ここでまた父は新しくできた観光施設に、私たちを何度も連れて行ってくれました。カナルJBインさんやノルドホテルさんの最上階のバーから見る夜景は格別でしたし、北一硝子三号館さんの通路にあるレールを見てここにSLが入ってくることを想像したりもしたものです。高校ではコーラス部に入り、練習が終わった後に時々運河まで行ってはしゃいだり、合宿の時に銭湯をはしごしたり、演奏会の打ち上げで喫茶店をはしごしたりしたのが楽しくてたまりませんでした。昔の郵便局跡の雑貨屋さんにも入り浸っていたり、一人で花銀から梁川通りまでを散策したりもしていました。成長するにつれて行動範囲が広がり、周りのものに対する興味・関心も広がって行ったような気がします。この頃は銭湯のある地域に住みたくて、大学を卒業したら小樽へ帰ってきて、銭湯のある町で一人暮らしをしたいと思っていました。
それから大学進学のために小樽を離れ、卒業してからは仕事の関係で札幌・岩内に住んだりしていましたが、やっぱり小樽に住みたくて後先考えずに帰って来て、フリーターを経てこだま交通に入りました。タクシー運転手になるのにはずいぶん反対されましたが、今まで見たこともなかった路地裏の光景をたくさん見ることができてますますタクシーの仕事が好きになりました。お客様との会話で昔の裏話や人間模様を聞くことができたのも今では財産になっています。
おたる案内人の資格習得には先輩のすすめもあったのですが、先生方の話を聞いているうちに過去の記憶と今見たものが一気につながっていき、気宇壮大なロマンとドラマが広がっていくのを感じました。中でも小樽倉庫については、創業者の西出孫佐衛門・西谷庄八両氏が私のご先祖様と同じ加越能人であることを聞いて親近感を覚えたものです。人物で最も関心のあるお方は木村円吉氏です。ニシン網元から不動産業・倉庫業へと業務を広げて生き残りを図り、数代にわたって学校やフェリーを誘致し現在の小樽経済の礎を作った功績は一番多く観光客の方に語らせてもらっています。
小樽は国と地域の繁栄を願った先人の方々の志と、今この街を何とかしたいと願う人々の心意気が交差しているのを感じます。そしてそれらの織り成すハーモニーが、人の心を惹きつけ続けているのだと思います。マイスターになったからには、小樽を訪れる人々が「小樽にまた来たい、小樽に住みたい」と思えるように、魅力を発信し続けていく語り部になりたいと思っています。
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